茶道内弟子修業日記「大掃除2」
御寺の高い天井まで届く大きな大きな本棚にびっしり本が並んでいる。
そこは庫裏(くり:お寺の台所)に続く広間座敷の廊下の一列裏側であり、メイとはまったく無縁の本に思えて、いつもはただの壁と化していた。
一冊一冊の一年の埃を落としながら、ぱらりと中を開いて見る。
(ムっ、難しそう)
掃除をしながら、ちょっと禅の勉強をした気持がする。
(読んでないけど)
確かに見渡せば、お寺の中は、こんな貴重な本や道具、文化財の襖絵、国宝の庭、いや、建物そのものも文化財だ。
その中に身をただ置いているだけでもすごいことだが、掃除を自分でしながら自分はそれを体得させていただいているようなもんだ。
茶室だって、ここのは国宝の写しあり、重文の茶室あり、柱一つ、高さや広さの寸法、この空間そのものを体に染み込ませているようなもんだ。
意識しなかったら、ただの掃除がこの日、禅の本を手にしただけで、なんだか変わって見えた。
冬の明け方や曇りの日はほとんど真っ暗な茶室。
掃除をしようにも目が埃を見分けられないし、汚れをとっている気もしない。
でも、決められた通り拭き清める。
「自分を清めてるんだ」
そう和尚様が言われていたのが、この暗さだと分かる。
しかも、だんだん心が落ち着いてくると、この暗さでも十分目が慣れて見えてくるのだ。
それは、明るい晴れの日の昼間、窓を全開している時とは違うものだとわかった。
暗いので、にじり口を少し開けた時に漏れる光が真っ白く畳に走り、別世界のように感じた。
土壁に掛けられた障子ごしに、透けて見える下地窓から入る光。。。
それをうけた床の椿が自然界の代表のように、後光をはなっているように見えた。
この暗さでしか見えない美というのもあるのか・・・
利休の黒茶碗など、暗い中で見たほうがいいのかも、、、美術館で光を当てられて存在しているものじゃないんだな。
茶室の障子を外し、下地窓を掃除しながら、茶室の奥深い「仕掛け」というものにメイは身震いをしていた。
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